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2020.10.19

第2話「天田太郎です。名刺代わりに話します。の続き」

enpitsu

天田 太郎

代表取締役社長、元お笑い芸人

米国・オハイオ州立大学経営学部国際経営学科卒。大学卒業後、テレビ番組制作会社に入社。映像ディレクターを目指すが、父が起業した当社の経営がバブル崩壊の景気後、悪化。経営を立て直すために転職し、不動産広告を中心とした事業の軌道修正に成功する。しかしその後、リーマンショックにより再び経営の危機に。そこで、これまでの不動産広告事業だけでなく、当時ブームになりつつあったマラソンをはじめとするスポーツをもうひとつの業務軸にするべく「東京マラソン」などの仕事を受注。以来、マラソンをはじめとするスポーツイベント運営などを通じ、地域と人をつなげる社会貢献活動も精力的に行っている。また、外部講師として企業の採用活動サポートなども手掛けるほか、広告・PRの視点での企業コンサルティング、企業ブランディング等を得意とし、大学では「自己ブランディング」というテーマで非常勤講師も行う。

「太郎、会社が潰れそうだ。太郎!!
 今すぐ会社を継いでくれ!」


こんな生々しい電話が、今から23年前、現在僕が社長として経営する会社の、創業者である父からかかってきたものでした。

そりゃあビビリますよ、普通こんな電話かかってこないですからね。しかも僕は「世の中の人たちを救いたい!」なんて大風呂敷広げた生意気な野郎で、それをメディアを通じて伝えていきたい野望がありましたから、いきなり父の会社を継げと言われてもそりゃあ覚悟も何もないですからね。

なので、その電話に対して僕はこう答えました。

「明日からシベリアに2ヶ月ロケに行く。だからその間に考えておくよ。でも今やっていることは、初めて『これがやりたかったんだ』と思えた仕事なんだ。できればこの仕事を辞めたくない」

父にはそれだけ伝えて、僕は長期ロケの舞台であるシベリアへ旅立ちました。

正直、氷点下20-40度の極寒のシベリアでのロケは大変でした。モスクワでは入国審査の際、たくさんの機材の搬入に対しイチャモンがつき、高額を支払って処理しなければいけなかったり、役者さんは──大物の方なのに何故かパスポートの期限が切れていて、成田で出国ができなかったり、ダメ押しの出来事としてハバロフスクに着いた僕は高熱を出してしまい、ロシアのなんだか怪しい病院で注射を打たれるはめになったり……。

とにかくハプニング続出の大変なロケとなりました。

 

そして、2ヶ月後。

 

日本はもうすっかり春になっていました。

そして帰ってきた翌日に、父から電話がありました。

「この会社をすぐに継げないか?」


当時の僕は両耳にピアス、そしてその時のキムタクを真似してロン毛。

お世辞にも「社長」と呼べる風格などなく、いや、その自覚もなく、でもなんだか甘えたことを言っている余地もなく、僕は

黒の革パンに革ジャンに
ウォレットチェーンをジャラジャラさせ、
400ccのアメリカンバイクにまたがって
父の会社に乗り込みました。

まあ、それは当時の社員のみなさん、びっくりです。

そんな僕を見た僕のお父様、そして社長。目を丸くしながら僕の足元から頭のてっぺんまでを舐めるように見て、

「ま、いいか……。
ただその、両耳にぶら下げてるものだけ、外してくれ」

こうして僕の入社がきまるのですけど、でもですね、僕の父は小さい頃から息子たちにはこう言い続けていたのですよ!?

「お前たちの人生なのだから、生き方は自分で決めなさい。
好きなことをやって、悔いなく生きていけばいい」

はーーーーーーーーーーーーーあ?


そのつもりで僕はアメリカにも留学したし、いつも夢を追いかけていたし、辛いけどADなんていうポジションで仕事して、やっと夢が叶いそうになってきたのに。。。

しかも、ひと思いにとばかりに畳みかけてきたのは母です。

「太郎が会社を継いでくれないと、
この家、担保に入ってるから
母さん、この家に住めなくなっちゃうわ」


チーーーン・・・。はい、僕はもう何も言えましぇーーーん。

そりゃあ男はみんな、母親の涙には弱いでしょう!!

僕には二人の弟がいます。次男は医者。三男は大学教授。
ええ、どう考えても僕ですよね、はい。
そうです、もう、僕しかないんです、ええ笑

涙。涙。涙。

そうして僕は、この会社の「従業員」に。新天地で苦悩の日々が始まります。

この続きは第3話で赤裸々にお話させていただきます!

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