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2020.12.21

第6話「天田太郎です。名刺代わりに話します。引続き、続き」

enpitsu

天田 太郎

代表取締役社長、元お笑い芸人

米国・オハイオ州立大学経営学部国際経営学科卒。大学卒業後、テレビ番組制作会社に入社。映像ディレクターを目指すが、父が起業した当社の経営がバブル崩壊の景気後、悪化。経営を立て直すために転職し、不動産広告を中心とした事業の軌道修正に成功する。しかしその後、リーマンショックにより再び経営の危機に。そこで、これまでの不動産広告事業だけでなく、当時ブームになりつつあったマラソンをはじめとするスポーツをもうひとつの業務軸にするべく「東京マラソン」などの仕事を受注。以来、マラソンをはじめとするスポーツイベント運営などを通じ、地域と人をつなげる社会貢献活動も精力的に行っている。また、外部講師として企業の採用活動サポートなども手掛けるほか、広告・PRの視点での企業コンサルティング、企業ブランディング等を得意とし、大学では「自己ブランディング」というテーマで非常勤講師も行う。

社長になって2年が過ぎ、
お笑い学校へ通い始める。
35歳の時でした。

2005年4月
「ホリプロ笑売塾」に入塾しました。

二足のわらじで
社会人人生の再スタートです。

僕のイメージでは、
ネタの書き方、演技指導など、
タレント養成所での教育みたいなものでしたが、

入ってすぐに、

「ネタを書きなさい。
作って、見せて、ダメ出しを受けて、
直して、またダメ出しを受けて、
できあがったら、次のネタを書く。

それで半年後、舞台で発表。
またネタを作り、
一番いいものを一年後の舞台で発表。
優秀者はホリプロコムへの所属の可能性があります」

と言われたのです。

 

お笑いのネタを書く。。。

お笑いのネタを書く。。。

どうやったらいいかわからない。

よって、お笑いのDVDを
買いまくり。
見まくり。

面白いネタの書き起こしもして、
テンポやタイミングを勉強しました。

当時は、今ほどYouTubeが充実していなかったので、
DVDで見ていたんです。

が、

家族にも、
社員にも、

「お笑いの学校に通ってる」

なんてこと、言えたものじゃありません。

なぜかって? 
そりゃそうですよ、まだ長男は4歳という手が掛かる時期でしたし、
平日は深夜近くまで仕事か接待、土日も仕事、
水曜日は、不動産会社のクライアントさんとゴルフ。

家庭を顧みるような良き夫、良き父親をやっていないのに、
この期に及んで高い学費を支払い、
「お笑いの学校」に行ってるなんて、
どやされるに決まってます。

 

もちろん会社でも、

社員は一生懸命仕事しているのに、
「社長はお笑い学校」

なんて言えない言えない。

だから、お勉強するためのお笑いDVDが、
家でも会社でも見れないんです。

だから僕は、自分の机の目の前に
目隠しのパーテーションを設置。
仕事の合間を縫って、
こっそりパソコンでDVDを見ていたんです。

それに熱中してしまうと、
社員が突然、
「ちょっと相談があります」
とか言って、顔を覗かせてくるので慌てましたが。

 

ネタは、東京駅八重洲口にある行きつけのBARで、
ボトルキープのウィスキーをちびちびやりながら
書きました。

ほぼ閉店の終電ギリギリまで書いて、
相方にメール。

お笑い学校の授業の前の日に会って、
ネタ合わせ。

授業の日にお披露目して、
ダメ出しをもらって、また書き直し。

真面目に続けて、
とうとう一年間、やり遂げました。

 

そういえば
ある夜、ホリプロに行ったとき、
自動ドアが締まっていたため困っていると、

スピードワゴンの井戸田さんに遭遇。
駆け寄って自動ドアを開けてくれ、
「お疲れさまです!」

と丁寧に挨拶してくださいました。

“芸人志望”ではなく、
年齢から見て僕を
どこかの偉い人だと思った可能性
があります笑

 

一年で、できたネタの数は15本。
見せずにボツにしたネタも含めると
30本ぐらいはあったかと思います。

 

しかし結果的に、
ホリプロコムには声をかけてもらえませんでした。

そして卒業後、
悩みました。

続けるべきかどうするか。

僕らがそこで決めたことは、
やれるとこまで続けようということでした。

ライブに出させてもらうための
オーディションを受けようという事になり、
月間デビューやネットで
いろいろなタレント事務所主催ライブを探し、
ネタ見せに行きました。

最初に向かったのはサンミュージック。
その他
渡辺プロダクション、タイタン、
などいろいろ行きましたが、

中でもサンミュージックのなかの芸能小劇場で行われていた
「東京ビタミン寄席」のネタ見せには毎月通いました。

それこそ、翌月のネタ見せの日を確認。
その日のその時間は一切アポを入れず、
会社を抜け出して、
当時、サンミュージックのあった四谷三丁目に行きました。

サンミュージックの重鎮、
ブッチャーブラザーズさんには大変お世話になりまして、

最初はリッキー師匠の事務所ライブ「大部屋ダイヤモンド」に出演し、
一ヶ月後には「東京ビタミン寄席」に出させていただきました。

 

2007年には年間27の舞台に出ることができ、
最終的には、ブッチャーブラザーズ・リッキー師匠の事務所に
所属させていただきました。

そして2009年。
なんと!

フジテレビの「爆笑レッドカーペット」に出演!!!!!

 

ところが、世の中そんなに甘くはありません。

2007年
アメリカ合衆国のサブプライム住宅ローン危機など
多分野にわたる資産価格の暴落

2008年
アメリカ合衆国の投資銀行である
リーマン・ブラザーズ・ホールディングスが経営破綻
──いわゆるリーマン・ショックです。

 

弊社は当時、売上の90%は不動産広告でした。
うち、相方の不動産会社が60%ほどでした。

ところが、そのリーマン・ショックを受け、
メインクライアントである相方の不動産会社も
業績が急速に悪化し、2009年4月に事業再生ADR手続を申請したのです。

「爆笑レッドカーペット」に出演したのが2009年の4月と5月。

浮かれていたのもほんのひとときで、
その後、弊社の存続も危ぶまれるほどの
大不景気が襲いかかってきたのです。

ということで、この先は次の第7話でお話しましょう。

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