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2020.10.1

第1話「天田太郎です。名刺代わりに話します。」

enpitsu

天田 太郎

代表取締役社長、元お笑い芸人

米国・オハイオ州立大学経営学部国際経営学科卒。大学卒業後、テレビ番組制作会社に入社。映像ディレクターを目指すが、父が起業した当社の経営がバブル崩壊の景気後、悪化。経営を立て直すために転職し、不動産広告を中心とした事業の軌道修正に成功する。しかしその後、リーマンショックにより再び経営の危機に。そこで、これまでの不動産広告事業だけでなく、当時ブームになりつつあったマラソンをはじめとするスポーツをもうひとつの業務軸にするべく「東京マラソン」などの仕事を受注。以来、マラソンをはじめとするスポーツイベント運営などを通じ、地域と人をつなげる社会貢献活動も精力的に行っている。また、外部講師として企業の採用活動サポートなども手掛けるほか、広告・PRの視点での企業コンサルティング、企業ブランディング等を得意とし、大学では「自己ブランディング」というテーマで非常勤講師も行う。

精神年齢診断をしたら、まさかの10才!!
「見た目はオトナ、頭脳はコドモ、その名も迷社長・たろー」(「それ、本気でシャレにならないから」とうちの副社長が睨んでます)

 

まずはごあいさつしますね。
僕は天田太郎といって、小さいですが広告制作・イベント運営の会社の社長をしています。

小学1年生から6年生までとにかく僕は背が低かったんです。体も痩せこけて、肌は黒くて、「ちびくろサンボ」ってあだ名を付けられたぐらい。
そんな僕が通信簿に先生から書かれたコメントは「とにかく明るい。ムードメーカー。でも、人の話を聞かない。落ち着きがない。目立ちたがり屋」。ま、言ってみれば騒がしい、じっとしてられないヤンチャ坊主だったわけです。

そんな僕は中学入学時、140cmだった身長が一年間で約10cmずつ、伸びていき、卒業時には167cm。高校で5cm伸びて172cmになったのです。

身長も伸びれば、態度もデカくなる。生意気にもなる。高校3年になると、デカいことをしてやりたい、デカい人間になりたいと思いたち、

日本のだいがくぅ〜!? ちっちゃいちっちゃい。
やっぱドリームを叶えるにはアメリカっしょ!! 

ということで、大学はアメリカはコロラド州デンバーへ渡り、その後、オハイオ州立大学に転入、卒業しました。

でもね、真面目な想いがあったんです。

小学校4年の時に見た「24時間テレビ」(日本テレビ)で、黒柳徹子さんがカンボジア難民問題を取り上げていて、現地でレポートをしていたんです。子どもたちがみんな一様にガリッガリに痩せているのにお腹だけ膨れているというその映像に、かなりの衝撃を受けまして!!!

世界の難民たちを救いたい!
平和な世界を創りたい

とはいえ、その大きな夢をどのように実現したらいいのかわからないまま、高校3年生に。そんなある時、文化人類学の本を読んでいた時に、、、

そうだ!国連に入ろう!!!

と思い立つのです。しかし、国連に入るには日本の大学では国際基督教大学が有力。しかし僕の頭で入学はどう考えても無理。だったら少しでも入りやすいようにとアメリカの大学を志願したという経緯になります。

ところが!!

ニューヨークにある国連本部に5度ほど見学に行ったことがあるのですが──そこで考えが変わってしまうのです!

えぇっ!? 国連に入っても現場仕事ができないかも!?
現場に行ってみたいというのに? だとしたら…… 

ということで、大学を卒業して帰国した僕は、テレビ局でドキュメンタリー番組にアナウンサーとして出演することで、貧しさに苦しむ人たちを伝え救いたいと考えたのです。しかし、アメリカから帰国して受けられる放送局はNHKだけでした。NHKが主催するアナウンススクールにも通い、そこの講師からは「キミ面白いねえ!NHKにはこういう人材も必要だと思うよ。とにかく筆記試験に合格しなさい」と言われたものの、見事撃沈(チーン)。

結局、ドキュメンタリー番組を得意とする制作会社に就職しました。そこでAD生活が始まり、最初の一年間の休みはたったの7日間。今でこそ労働基準法によって大問題になってしまうところだが、当時のマスコミ業界はそれがまかり通っていたんだもんなあ。

大晦日もお正月も関係なく、徹夜でMAやら編集やら。そんな環境では集中力も切れますよ普通に。それでミスしてよく殴られました。これもいまでは大問題ですね。
そして5年ほど経ったある日。

やっと夢にまで見たドキュメンタリー番組!
極寒のシベリアで長期滞在ロケ!

この番組は「テレビ朝日「ネイチァリングスペシャル」」という枠で放送されるもので、ロシア極東の沿海地方に生息するアムールトラ、トナカイ牧畜民の生活、カムチャッカ半島の自然、などなど広大なシベリアの大自然の四季を一年にわたって取材したのです。

僕たち取材クルーは、6〜8人くらいのチームを組んで、春、夏・秋、冬と年に3回、1回のロケで約2ヶ月滞在しました。

アムールトラやフクロウなど動物の撮影時には山小屋やテント泊。少数民族の撮影時には夏はテント泊、冬は装甲車の中で眠ったりしました。夏は凍った大地が湿地帯になるために蚊が大発生。長袖をきていても服の上から刺してきます。冬はマイナス20-40度。足の先が凍るように冷たくなります。

春に一人で少数民族を訪ねたロケハンの時、その酋長に勧められたトナカイの角をいただいてみたところ、なんとO146というウイルスに感染し、腹痛に苦しんだこともあります。

それでもシベリアという大地はとにかく大きくて、美しかった。夕日、冬のオーロラ、見渡す限りの雪原。そこに住む人たちのたくましさ。感動的で思い出深い一年間でした。こんな世界を、日本人としての僕が行くことで、世の中の人に知らない世界をもっと伝えたいという思いは、小さい頃からの夢につながる出来事でした。

ところが、その最後の冬のロケに行く前日、事件が起こりました。

会社が潰れそうだ。
太郎、会社を継いでくれ!

今、僕が経営する会社の創業者である父がこのような電話をしてきたのです。

その時、僕はこう答えました。

「明日からシベリアに2ヶ月ロケに行く。だからその間に考えておくよ。でも、今やっとやりたいことができたというのに、できればこの仕事は辞めたくないよ」

さあ、このあと、どうなるのか。

次のブログでお話ししましょう。

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